交響曲第2番ハ短調 『復活』

2. Symphonie

  c- MollAuferstehungssymphonie

マーラーはこの交響曲第2番における「復活」の副題には、実はあまり重きを置いていない。勿論、キリスト教でいう「死者の復活と最後の裁き」のニュアンスをある程度汲み取ってはいるが、彼は世の人に「復活」のテーマが曲作りに先立つ「標題」として規定されることを最も危惧していたのだ。だからと言うわけではないが、本日の演奏者にも、聴いて戴くお客様にも宗教的な束縛は押し付けたくないし、その必要はない。(因みにユダヤ人マーラーがキリスト教の洗礼を受けるのは、この曲の完成から3年後のことである。)

 むしろこの曲のテーマを簡潔に言えば「存在意義」ということになろうか。「我々はなぜ生きて、死んでいくのか」――マーラーが生涯自問し苦悩した課題が、曲作りの原動力となっている。こじ付けに思われたらそれまでだが、我々OBオケ(略称)が創立25周年を記念する時、どうしても考えなければならないことは、即ち「25年の存在」についてである。ここに於いて当演奏会における選曲の意図は明確になった。(そう言わないと「ただ大曲やりたかっただけやろ!」と囃されるしかないので、ちょっとカッコつけてみました。)なので、ご迷惑を承知で、敢えて曲のことと弊団のことをパラレルに語らせていただく。

第1楽章

さてこの曲は、突然の「慟哭(どうこく)」から始まる。この曲に先立つ第一交響曲で、圧倒的に輝かしき勝利を獲得した勇者(今日「巨人」と呼ばれる副題にある通り)が、この曲の冒頭では無残な骸(むくろ)となって眼前に現れるのだ、しかも突然に。声にならない驚きと迫り来る恐怖が弦楽器の巧妙なモチーフによってもたらされ、凄まじき苦悶のスタートを切る。

マーラーの言葉を借りる。

「これは一体何なのか?この生は、そしてこの死は何なのか?われわれにとって、恒常不変なものは存在するのか?これらすべてはとりとめもない夢にすぎないのか?それともこの生に、そしてこの死に何か意味があるのか?」――まさに疑問符だらけである。

このとてつもない問いの答えを模索するように、 20分も要す長大な1楽章は、死して身を横たえた「生」の、戦いと勝利・苦難・願望の日々をさまよう。お客様は遠く牧場の匂いを感じたり、朝露の雫や小川のせせらぎを見たりするかも知れない。彼方から敬虔な祈りの声や、輝かしき勝利の雄叫びを耳にするかも知れない。マーラーは実に練れたオーケストレーションで、雄大なスケールの音景色を断片的に呈示する。しかし悪く言えば、それらは収拾のつかない寄り道の数々で、浮かぶ度に強靭で悲劇的な葬送のテーマに破壊される悲哀も併せ持つ。19世紀末、オーケストラの楽器編成が醜いまでに肥大化し、その自重で潰れそうになっていたその真っ盛りに生まれたこの曲は(1894年完成)、その特質を迫り来る恐怖の表現で余すところなく披露する。「こんなの使わねーよ!」というような物まで打楽器に転用する(これは別の楽章だが)し、弓の裏側(木の部分)で弦を叩かせたり、本来の演奏姿勢を崩す木管楽器のベルアップなど、奏者には酷なことを沢山要求してくる。

そして彷徨の末にたどり着くこの楽章の結びには全く救いがない。彼方の美しい情景が、繰り返される溜め息によってかすむしばしの憩いかと思いきや、突然、遺体が崖から蹴落とされるように、ガラガラと崩れて終わる。

尚、第1楽章と第2楽章の間には「5分ほど休憩を取っても良い」といった指示があるが、これは、長大な第1楽章に演奏者が疲れるから、というのではなく、次の2楽章の存在と「すわり」がマーラーにとって最後まで悩みの種だったことが関係している。(舞台上ではその休憩を大義名分として配置替えを行わせていただく予定。)

 

<ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラの簡易25年史>

文中に時折顔を出すのは、この演奏会に先立って行った団員アンケートの回答です。

第一章:存在意義は「憂さ晴らし」?

1974年の冬、ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラは、大学オーケストラ(慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ)との合同演奏会に、卒業生だけで作った初めてのオーケストラとしてデビューしました。でもそこにまだ団の名前などなく、所謂「演奏会OBの部」という位置づけだったのです。今日の名前で初めて演奏会を行うのは、翌年の実質3回目の演奏会。この団体の存在意義を云々するのはようやくそこから、ということになります。

<写真>記念すべき第1回演奏会(左)と、黎明期の室内楽演奏会(76年)。前列左に、創立当初の指導者・中山冨士雄先生が見える。

足元おぼつかない団の確立を支えたのは、やはり団員の熱意。結成数年後に、団内の交流を大いに深めた団内報が生まれました。その名も『オーネ・ゾルゲン』 (1978年〜1981年頃まで発刊)。編者の関根氏(1974年卒・現慶大教授)によれば、シュトラウスのポルカ『憂いもなく』の原題として引用し、「日頃の憂さ晴らし」的活動を目指す団内報として名づけたそうです。しかし一方で本人曰く「でも“Ohne Sorgen ”の意味には『すべきことをしない』『鈍感ででたらめな』『世話の焼ける』という散々なものもあり」とも。これが存在意義だったらかなりイヤですが、今も団に残る変な洒落っ気や諧謔(かいぎゃく)の気概はここら辺が端緒のようです。

  <写真>当然手書き印刷。活動報告の他に記名投稿もあり、今は団の重鎮達も、当時は若く熱い思いを誌面狭しとぶちかましていました。

 

第2楽章は、思い出の章である。曲全体は優雅なレントラー(民俗舞踊から生まれた舞曲の一種)で、弦楽のやさしいメロディーが過ぎた日々の回想を奏でる。時折、むせぶような悲しみが通り過ぎ、決して平坦ではなかった人生の路程を暗示させるが、概して穏やかに澄み渡るこの楽章は、「存在意義」を模索する厳しいテーマの曲中に一服の清涼剤のように薫る。

それゆえ、マーラーはこの楽章の位置づけに難儀した。第1楽章との間に設けた「5分ほどの休憩」というのは、その異質なギャップを時間で埋めようとする苦肉の試みとも言える。

 

第二章:OBオケ甘辛思い出集

 OBオケは25年の間、年12回の定期演奏会を軸に、数々の演奏活動を行ってきました。夏の合宿も脈々と継続。日常的には土曜の夜の練習が中心です。練習後、指揮者をも巻き込んだ反省会は生活リズム化し(反省会=宴会!やらずに帰れない者多し)、それが高じて?団員の結婚式には大挙して押しかける、といった超大家族のように賑やかな空気を共有してきました。そんな中、まるで宴会から生まれたような企画の演奏会が、特に80年代半ばに頻出します。

(団員アンケートより)

●思い出に残った演奏会は?

(左)「WALPAK(85)」添乗員(司会)付きの世界音楽ツアー

(中)「サタデー(85)」表紙写真は独奏者の故数住岸子さん(Vn)

(右)「今夜はチャイコ!(89)」TV番組をもじったチャイコフスキー・プロ

   *いずれも企画・デザインは元団員の安川良介氏

 華やかなりしは世の中バブルの19895月、団として初めての海外演奏旅行に出発。オーストラリアはメルボルンで、地元オーケストラ・合唱と共に爽やかな演奏会を行いました。そもそもこのツアー、日豪ビジネスマンの言い争いが発端とか。「日本人はワーカホリックだから趣味活動なんて貧弱なもんだろ。」「なんだと!俺達だって休日はオーケストラやるくらいの余裕はあらあな!」「だったら証拠を見せてみなーっ!」「見せたろうじゃん!」てなもんで決まったとか。社会人オケの面目躍如、というところでしょうか。非公式ですが翌90年にも有志でシドニーとパースを訪ねています。

(アンケートより)「2回目の演奏旅行だが、パースで変なピアニストと共演。何と彼は後に映画『シャイン』で有名になったヘルフゴット氏だった。」

<写真>ダラス・ブルックスホールでの演奏会と当日のプログラム

指揮者のことに触れると、創立以来1981年まで続いた中山冨士雄先生のご指導の後、演奏会のたびごとに様々な指揮者にお願いするようになりました。その数、定期演奏会だけでも、1982年以降17年で実に15人!毎回新鮮な体験です(※これまでの演奏会参照)

しかし本番を終える度に、その新鮮なる収穫はどこへ置いてきちゃうのでしょうね?(矢崎先生、練習中ご心配おかけしました。)

 

第3楽章では、過去の回想から現実に引き戻された悲哀をかなり自嘲気味に表現している。『魚に説教するパドヴァの聖アントニウス』という自作の歌曲をモチーフにしたこの楽章は、完全なる失望と皮肉の音楽である。

「教会に誰も来ないので、聖人は川の魚に説教をする。魚はみな神妙に耳を傾け、たいそう有難がった。けれども説教が終わって自分の住処へ戻ると、有難い教えはすっかり忘れてしまって」という、無為で愚かな社会の諸行への風刺を、これまた大袈裟なオーケストレーションで描く。耳を澄ませば、魚たちのゆらゆら泳ぐ様や滑稽なリアクションが、特に木管楽器、弦楽器の表現に聴けるだろう。マーラー一流の、曲の流れを逸脱した変なおふざけも垣間見られ、突然荒れ狂う金管楽器はその象徴である。

 

第三章:願望・苦悩と「復活」

 1994年、OBオケは創立20周年を、創立時の指揮者・中山冨士雄先生と、当時最もお付き合いの深かった若手指揮者の新通英洋先生のダブルキャストによる記念演奏会で祝いました。歓喜の渦の中で誰もが、こうした華やかで快活な日々がいつまでも順風満帆に続くと思っていました。

 しかし結成20余年の疾走の疲れがOBオケにも忍び寄り、厳しい現実と、今後への課題を認識することになります。

団員の技術レベルも徐々に上がり、また大曲・難曲を経験した若い団員が増えたので、OBオケでもそうした曲を採り上げるようになりました。勢い、ユーモアセンスに重きを置いた演奏会は組みにくくなり、特色を出しにくくなってきました。

(アンケートより)「最近だんだん普通のオケになってきてしまった」

曲が難しくなったので練習は厳しさを増し、団員のゆとりも知らず知らず摩耗してきたのです。

(アンケートより) 「トップなのに本番当日、高熱を出して欠席した」※1995年冬のこの演奏会ではホントに舞台で倒れた人もいました。客の入りも超低調。OBオケの疲弊を象徴する演奏会でした。

 精神的にも本当に辛いことがありました。一緒に演奏を続けていた団員を亡くしたことは忘れ得ぬ出来事です。

  川村馨さん(Tp):1995年1月逝去。享年47歳。

  平野理美江さん(Vn):1999年4月逝去。享年30歳。*つい先日です。団員一同、ご冥福を祈念致します。

そして、団の精神的柱・中山冨士雄先生をも2年前の晩秋に失い、団一同悲嘆に暮れました。その翌年の冬、第43回定期演奏会(982)は期せずして先生への追悼コンサートとなり、荘重なブルックナーの第7交響曲が響き渡りました。

先生を始め今は亡き方々、雲の上で今日の我々のことをどんな風に見て下さっているか

<写真>(左)大曲演奏の走り?マーラーの交響曲第5番(93年7月・昭和女子大学人見記念講堂)/(右)指導される中山先生(94年7月)

 そんな中でも団の課題は容赦なく山積。団員の増加は各人の責任範疇を薄め、参加意識にもばらつきが見られるようになりました。

こうした団内のモヤモヤ、イラつきを一掃すべく、1997年に大規模な組織変更を行いました。これにより団内作業の分化を進める傍ら、新たな活動拠点の探索など、丁度四半世紀という節目を前に見直し・再スタートのチャンスが生まれたのです。

 

第4楽章は天上への憧れである。第3楽章の余韻から浮かび上がる僅か数分の歌曲は、無垢なアルトの歌声によって、永遠の輝きを放つだろう。

 

(アルト独唱)

O Röschen rot! おお、赤い小さなバラよ!

Der Mensch liegt in größter Not!

Der Mensch liegt in größter Pein!

人間は底知れず困窮し、際限なく苦悩する!

Je lieber möcht’ ich im Himmel sein!

私はいっそのこと天国に行ってしまいたい!

Da kam ich auf einen breiten Weg;

ふと私は広い道にやって来た。

Da kam ein Engelein und wollt’ mich abweisen.

そこへ天使が現れて、私を追い払おうとするではないか。

Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen!

ああ、やめて下さい! 私は決してそうはさせなかった!

Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!

私は神のみもとから来たのだし、再びそこへ還るのですから!

Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,

いとしき神は私に、小さな光を下さるだろう、

wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben!

とわなる至福の生命(いのち)を照らす、小さな光の一筋を!

 

第四章:「交響的共同体」または「公共的共鳴体」としての未来

 ワグネルOBオケが、今回この記念演奏会を通して何を掴むか、本当はよく分かりません。しかし強引にテーマに従うなら、『復活』の練習・演奏を通して必ずや何らかの「存在意義」、辛辣に言えば「身の程」を知り、その後の活動の糧を得る機会を持つことでしょう。

大事なことは、このオーケストラは一種の共同体として、各人がお互いに響き合いながら存在し続けてきたということ(シンフォニック・ソサィエティ)、そしてそれを常に世間に問う媒体として存在し続けてきたということ(パブリック・メディア?)ではないでしょうか。団員一同、この実感を今一度振り返るべきです。

 本日のお客様は、縁あって我々にとって意義ある瞬間の立会人になって下さいました。演奏がどんな結果に終わったとしても、それに懲りることなく、ワグネルOBオケをこれからも見守って叱咤激励していただければ、これに勝る幸いはありません。

*アンケートの回答者は、比較的在団期間の長い方が 多かったです。皆さん、泣かせます。え?自己陶酔?

●『復活』の演奏会に向けて一言:

「念願が叶った。きっと泣けると思う」

「皆のエネルギーを一つにして最高の状態で臨みたい」

「悔いなくさらい、燃え尽くす(しかし、やや危うい)」

「気持ちよくなりたい」

(こんな曲をやるまで)よく続いたもんだ」

「ノストラダムスの予言が当たるにしても、少なくとも7月12日以降であって欲しい」

●今後OBオケはこんな風になって欲しい

「もう少し音楽に対して真摯になって欲しい」

「心の合奏の達人で演奏の名人が織りなすオケ」

「演奏旅行をやりたい」

「ファミリーコンサート」

「出席率向上!」

「役割分担で全員参加」

「アメリカのオケと友好関係を結びたい」

●いつまでOBオケを続けたいか?

「独特のカルチャーをいつまでも大切にしたい」

「出産・育児・仕事・介護などで中断してもまた入れて!」

「楽器を運ぶ体力があるまで」

「楽器を吹いていられる間」

「第一回演奏会からすべてのステージに乗っている。皆勤賞が欲しい」

「入れ歯になったら辞めます」

「ファーム(二軍)を作ってくれたら死ぬまでやるぞー!」

「やりたい曲をやるまではやめん!」

<写真>昨年の合宿から(西湖民宿村)

 

 

(※ここからはこの曲のキモなので、解説に徹しマス。)

第5楽章になると、第2〜4楽章で描かれた思い出・現実・願望は、冒頭にしてことごとく粉砕され、第1楽章の苦悩=根本のテーマがまた舞い戻ってくる。オーケストラの全奏は、耳障りなくらい厳しい。

これは全編を通じて言えることだが、マーラーの音づくりは「位相=音の位置関係」と「響きの質」を緻密に考慮している。位相という意味では、この楽章は特に舞台裏からの響きが重要である。また響きの質という意味では、特に二つの異質な響きに注意が必要である。即ち神の怒りと、神の祝福、である。神と言うのが生々しければ、大自然の摂理、運命と言っても良いだろう(後記)

 さて、曲としての、それまでの流れを一切否定した後に、これからの結末がやや予告編的に現れる。舞台裏のホルンが遠き声を響かせると、木管、トロンボーンなどが極めて厳粛で敬虔な旋律を歌い出し、雄大な景色が現出する。しばしオーケストラ全体が何かに動揺する。すると、第1楽章でも使われたテーマが金管のコラールによって再現され、オケの全奏によって高められる。この一連の流れは正に祝福の輝きに満ちた響きの時間である。しかしそれも束の間、曲は沈み、ハープの物悲しい呟きを残すのみとなる。

 直後、遠い地鳴りのような不穏な響きが会場を襲うだろう。悪鬼の群れの蠢く(うごめく)ごとく、数々の打楽器の連打が不安感を募らせ、それは眼前に現れる。この世の存亡を賭けた最後の戦いとでも言おうか、清濁ぶつかる激しい音楽が展開する。具体的には神々しい輝きの音(大きな鐘など)と不気味な響き(銅鑼など)が交錯する。それを以ってお客様は相反する二つの意志を感得するだろう。やがて「死者の行進」と名づけられた、勇ましく、しかし悲痛なテーマが時間を支配する。かくして戦いの火焔は焦げ臭ささえ匂わせながら、一度は鎮火する。

しかし時を置かずして、やや哀愁を伴う弦楽器の音色の裏に、舞台裏で演奏される打楽器とトランペットのメロディーの断片がまたも不穏な空気を突き刺してくる。(このラッパの一音一音は、聖書を引き合いに出すと、それぞれこの世のさまざまな終わりを告げているらしい。)而してにわかに訪れるハルマゲドン。地上のすべてを焼き尽くす衝撃。一瞬にして栄華の都を焼き滅ぼした神の雷(いかずち)は鋭く、妥協がない。リズム的にも唐突さを否めない。地獄の業火に踊り込むように、オーケストラの全奏はアッチェレランドで猛り狂って突進すると、その先に突然「がたん!」と開いた陥穽に呑み込まれてしまうのだ。

 さて時を置いて、何もなくなった大地の彼方に再び地鳴りがし(バスドラム)、ホルンが再び遠き声を木霊させる。それは悪意や怒りではなく、もっと厳かで深いもののようである。そこにすべての死者を無理矢理起こすラッパ(トランペット)の高らかな響きが、唐突に、しかしあるべくして鳴り響く。

ラッパの音―-マーラーの幼児体験。両親の絶えない喧嘩を辞して裏庭に一人出ると、近所の兵舎から時を告げるラッパの音が。夕闇の虚空にそれは時に悲しく、時に優しささえ有して響いていたことだろう。彼の「得意技」の舞台裏に配置するラッパは、この体験なくして有り得なかったのではないか。そういう意味でも、自分の思いや体験のあらゆるものを詰め込んでくるマーラーの曲は、演奏する者に大いなる関心を湧き起こすのである。

 大地の彼方に響く(あの世の)ラッパに、現世に残された、悲しげな鳥の声が、フルートの音として応える。打楽器による地鳴り、または遠雷が添う。幾度かの応酬の後、やがて二つは融合し、極めて東洋的で我々には馴染み深い旋律の断片となって収束する。西洋的な半音階ではなく、全音で上下するのも印象的である。まるで仏教の涅槃の世界、彼岸を見る思いですらある。この恐ろしき親近感をして、日本人たる者、元旦を迎えたように襟を正し厳粛にならざるを得なくなる。

そして厳粛な心構えができたところに「極めて神秘的に(譜面での指示)」混声合唱が無伴奏で浮かび上がる。18943月、当時のマーラーが大いに尊敬していた指揮者であるハンス・フォン・ビューローの葬儀に接した折、慰霊の合唱に歌われたこの『復活』の頌歌(クロプシュトック作)が、この曲作りに決定的なインスピレーションを与える。彼はこの奇跡の詩に加筆し、自身の苦悶への答えを見出そうとしたのである。

 

(ソプラノ独唱と合唱)

Aufersteh’n, ja aufersteh’n wirst du,

復活する。そう、お前は復活するのだ、

mein Staub, nach kurzer Ruh!

塵のような我が骸よ、短き憩いの後に!

Unsterblich Leben wird der dich rief dir geben!

不滅の生命をお前を呼ぶ方が与えて下さるだろう!

 

合唱にソプラノ独唱が密かに、癒すように溶け込む。それに応えるオーケストラの響きに、悟りとも呼べる、これまでとは違う明らかに達観した空気がまとう。

さあ、この曲もようやく最終コーナーだ。

 

(合 唱)

Wieder aufzublüh’n wirst du gesät!

再び花咲くために、お前は種と播かれるのだ!

Der Herr der Ernte geht

刈り入れの主が歩を進め、

und sammelt Garben uns ein, die starben!

収穫の束、即ち死せる我らを集められるのだ!

 

オーケストラの期待に、人の声たるアルトとソプラノの独唱が喜びの実感を「信じよ!」と歌う。合唱の声も次第に確信の色に変わる。

合唱の余韻として、低管のコラールが静寂に座す。

 

 (アルト独唱)

O glaube, Mein Herz, o glaube:

Es geht dir nichts verloren!

おお信ぜよ、我が心よ。お前は何一つ失いはしないのだ!

Dein ist Dein ja Dein, was du gesehnt!

Dein, was du geliebt, was du gestritten!

お前のものだ、そう、お前が憧れたもの、

お前が愛し戦ってきたものはみなお前のものなのだ!

(ソプラノ独唱)

O glaube: Du wardst nicht umsonst geboren!

おお信ぜよ、お前は理由なく生まれてきたのではない!

Hast nicht umsonst gelebt, gelitten!

お前は決していたずらに生き、苦しんだのではないのだ!

(合 唱)

Was entstanden ist, das muß vergehen!

生まれたものは、滅びねばならない。

Was vergangen, auferstehen!

しかし滅び去ったものは、よみがえるのだ!

 

最大の危機は脱した。もう悩み悲しむことはない。存在の意義は解ったのだ。至福足り、後は限りない喜びへ向かって一目散に駆け上がるだけだ。

 

(合唱とアルト独唱)

Hör auf zu beben!   Bereite dich zu leben!

恐れおののくのをやめよ! 生きる支度をするのだ!

 

「支度せよ!」という、号令にも似た男声合唱を受けて、弦楽はにわかに高揚し、堰を切って音楽が溢れ始める。その反応の鮮やかさ!まるで空の雲がなぎ払われ、成層圏が見透かされるほどに青さが極まったかのようである。

 

(ソプラノ・アルト重唱と合唱)

O Schmerz! Du Alldurchdringer! Dir bin ich entrungen!

おお苦しみよ、一切を刺し貫くものよ! 私はお前から脱し得たのだ!

O Tod! Du Allbezwinger! Nun bist du bezwungen!

おお死よ!一切を征服するものよ! 今度はお前が征服される番だ!

(合 唱)

Mit Flügeln, die ich mir errungen,

自ら勝ち得た翼に乗って、

in heißem Liebesstreben, werd’ ich entschweben

熱き望みを胸に飛び立とう、

zum Licht, zu dem kein Aug’gedrungen!

いかなる瞳もまみえたことのない光のもとへ!

Mit Flügeln, die ich mir errungen, werde ich entschweben!

自ら勝ち得た翼に乗って舞い上がろう!

Sterben werd’ ich, um zu leben!!

私は死するのだ、生きんがために!!

 

ここで天の祝福の響きが揺るぎ無く再現する。オルガンのスーパーストロークで変ホ長調の和音が炸裂し、全空が震え上がる。それはオーケストラと合唱に、本当に翼が生えたかのような一種の揚力を与え、舞台がそのまま浮き上がる錯覚を及ぼすかも知れない。昇る先はただ一つ、至福の天界である。沸き立つ弦楽器、吠える管楽器、そして打楽器の一斉射撃の織り成す大音響に不快たるものは一切なく、蒼空が何発もの大輪の花火で彩られる如きである。合唱はますます生気を帯び、幸福の絶頂で謡を解き放つ。

 

(独唱と合唱)

Aufersteh’n, ja aufersteh’n wirst du,

復活する、そう、お前は復活するのだ、

mein Herz, in einem Nu!

我が心よ、一瞬のうちに!

Was du geschlagen,

お前が打ち破ったもの、

zu Gott wird es dich tragen!

それがお前を神のもとへと担い行くのだ!

 

その瞬間、マーラー独特のfp(フォルテピアノ・クレッシェンド)は最大限に活かされる。なぜならそれは、発生の打撃が閃光であり、伸び行くクレッシェンドが衝撃波に換言出来得るからである。物理のことは良く分からないが、心理的にはそう感じられる。お客様もそれを感じて戴けると誠に嬉しい。而して壮大なエネルギーの放出は天空に座する伽藍の大鐘の乱打を誘い、最大限の祝福と神=運命の勝利を告げる。すべては語り尽くされたので、終局はあっけなく結ばれて何の違和感もない。    

(稲葉光亮)

参考文献:

『グスタフ・マーラー事典』(岩波書店) Alphons Silbermann著/柴田南雄監修/山我哲雄訳

『グスタフ・マーラー の思い出』(音楽之友社) Ntalie Bauer-Lechner著/Herbert Killian編/高野茂訳

『マーラー−未来の同時代者』(白水社) Kurt Blaukopf著/酒田健一訳

『音と心の旅』 (朝日文庫) 村田武雄著

 


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