第48回定期演奏会曲目解説

好奇心旺盛だが少し生意気な小学生まー君が、ものしり博士(自称)に連れられてワグネル・ソサィエティーOBオーケストラを聴きにやってきました。さて、どんな会話が交されるのか覗いてみましょう。(文責:栗山真寛)

ワーグナー/歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲へ
モーツァルト/交響曲第38番ニ長調「プラハ」へ
ブラームス/交響曲第2番ニ長調へ

まー君(以下、ま):ねえねえ、博士。このプログラム、なんで表紙が「いかりマーク」なの?

博士(以下、博):「いかりマーク」だって?何のことだか。

ま:最近はやりのインターネットでは文字だけで顔の表情を表わす顔文字ってのがあって、例えば(^_^)は「笑いマーク」、(@o@)は「驚きマーク」、(-_-#)は「怒りマーク」なんだよ。そんなことも知らないで博士名乗ってんの?凸(-_-#)

博:あー、これはすまんすまん。しかし、中指立てるのは余計だぞ。

ま:それで、最初の質問に答えてよ。

博:よいか、表紙の#は音楽上の記号で「シャープ」、それが2つあることでニ長調を表わすのだよ。今回取り上げる曲目では、後半2曲が共にニ長調であることから採用されたデザインというわけなのだよ。

ま:でも、1曲目はイ長調(#3つ)、ところによってホ長調(#4つ)だよ。やや無理がない?

博:まあまあ、担当者もそれでだいぶ頭を悩ませおったようだが、ここは大目に見てあげなさい。他にも、今回取り上げるブラームス、モーツァルト、ワーグナーの頭文字を取って、某自動車メーカーのパロディにする、という案もあったのだが、残念ながら不採用になってしまった。

ま:そういう陽の目を見ない、報われない仕事って、どれくらいあるんだろう。 博:そんなことに興味を示さんでもよろしい。それよりも、3曲とも#系の調性で共通している、ということに注目しなさい。これは♭(フラット)系の調性よりも弦楽器が鳴る、とされている調なのだよ。管楽器が大きな音を出すことで定評のあるワグネルOBオケだけに、この調性のメリットを生かした弦楽器がどれだけ対抗するかが今回の聴き所の一つじゃないのかな。

ま:さすが博士、ためになるなぁ。

 

ワーグナー/歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲

博:(よしよしこっちのペースになってきたぞ)それでは早速3曲をそれぞれ具体的に見ていこうかの。まず1曲目はワーグナー/歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲。なんとまた、弦楽器の意気込みが伝わる曲が先頭にきたことであろう!

ま:ねえ博士、欧文の和訳みたいな日本語やめませんか。

博:いちいちうるさいな。とにかく、この曲はヴァイオリンに始まって、ヴァイオリンに終わる。一般的には2つに分けられるヴァイオリンが、この曲では実に多いところでは8つにも分けられて切々と崇高なメロディを歌うのだよ。この美しさはまさに弦楽器ならではであり、わずか75小節の曲でありながら弾ききった後の充実感は実際の小節数以上なのだよ。それに対して、管楽器、特に金管楽器は初めて譜面を見るとあまりの音符の少なさに愕然とするらしい。

ま:だからといって演奏会費を音符の数で割るような無粋なことはしちゃいけないよね。

博:そう、音符の単価に見合うだけの重要な場面を担当してると考えればよい。事実、金管楽器が活躍するのは、「聖杯」が最も光り輝く、というクライマックスなのだから。 ま:聖杯、というのは何?

博:十字架にかけられたキリストの血を受けたとされるのが聖杯。実際にそれが存在するのかどうかは別にして、ワーグナーが歌劇の題材を好んで求めた中世の伝説では、この神聖な聖遺物は俗世間から遠ざけられ、聖杯騎士と呼ばれる騎士たちがそれを護ってるとされているのだよ。後年、ワーグナーが作曲した「パルジファル」なんていうのは、この聖杯を巡る物語なんだけれども、歌劇「ローエングリン」においても聖杯が直接舞台上に現れないとはいえ、主人公のローエングリンが聖杯騎士である、という点で聖杯がとても重要な意味を持っているのだよ。そして歌劇全体の導入である第1幕への前奏曲は、この聖杯が天使によって地上にもたらされる→聖杯が大きく光り輝く→天使が天上へ去って行く、という様を描いたものなのだよ。だからクライマックスを過ぎると自然と惜別の念が湧き起こったりもする。劇場ではその雰囲気を持たせつつ幕が開くわけだ。従来のオペラの序曲というものは、こう言っては作曲家たちに失礼だが本編のハイライトをつなぎあわせたような音楽だった。それに物足りなさを感じたワーグナーは、本編のつなぎあわせではなく、かつ物語の内容を表わすような前奏曲という形式に改めたのだよ。文学と音楽の融合を目指す彼ならではの発想と言えよう。

 

モーツァルト/交響曲第38番ニ長調「プラハ」

ま:博士、つぎはモーツァルトだよ。

博:2曲目のモーツァルト/交響曲第38番には「プラハ」という愛称がつけられておる。ま:チェコの首都プラハのことだよね。なんでそんな東欧の地名が付けられているの? 博:それは単純に初演の地がプラハだったからだよ。チェコ(プラハ)というと、旧共産圏のイメージからヨーロッパの東の方にあるイメージが強いが、しかし地理的にプラハはそんなに東ではないんだよ。地図で確かめれば分かるのだけれども、プラハはウィーンの北西、つまりウィーンの方が、プラハよりも東にあるわけだ。

ま:ほんとだ。これだとチェコに対する見方が大きく変わりそうだなあ。

博:そうだね、この地理関係を頭に入れておくと、モーツァルトと同じ時代に多くの優秀なボヘミア人(チェコ人)の音楽家がウィーンなどのドイツ語圏で活躍した、という事実を理解しやすいね。また、このことから逆に、ウィーンで活動していたモーツァルトの芸術作品を、プラハの聴衆はよく理解できた、ということも導けるね。1786年にオペラ「フィガロの結婚」がプラハで大成功を収めたことから、自作を指揮するようにとプラハに招かれたモーツァルトは新作であるこの交響曲を携え、翌1787年1月に現地で初演したのだよ。ただ、この曲は必ずしもプラハで初演されることを意図して書かれたわけではない、ということを付け加えておこう。

ま:そういえば、交響曲って普通、楽章は4つなのに、なんでこの曲は3楽章しかないの?

博:この交響曲の楽章数は3つでメヌエット楽章を欠くことから「メヌエットなしの交響曲」と呼ばれることもあるが、18世紀に書かれた交響曲においては3楽章しかないことは珍しいことではないんだよ。それよりもこの交響曲が特徴的なのは、第1楽章冒頭に長い序奏がついていて、音楽学者のなかにはこれが一つの楽章に相当する、と解釈する人もいるそうだ。

ま:その序奏だけれども、ずいぶんと重苦しい出だしだね。

博:それは、この交響曲と並行して、モーツァルトはオペラの作曲も手掛けており、ことに「ドン・ジョヴァンニ」の緊張感が、序奏部に反映していると考えられているのだよ。他にも随所にオペラらしい音楽が聴かれ、特に第3楽章はわずか5分足らずの曲なんだけれども長調と短調がしきりに交代して駆け抜けるようにして全曲を締めくくる。聴き終わって「見かけの快活さと、紛れもない完全性にもかかわらず、魂の中に何かの傷を残して行く」と評した音楽学者の気持ちを、若い君も理解できるかな?

ま:演奏次第だね(きっぱり)。演奏会最後の曲はワーグナーと仲の悪いブラームスだよ。

 

ブラームス/交響曲第2番ニ長調

博:うむ、この同時代の二人の作曲家がなぜ仲悪かったかというと、ワーグナーのところで言った、文学と音楽の融合を目指すワーグナーに対して、ブラームスは音楽を標題と切り離した絶対音楽を推進したからなんだよ。交響曲という形式は、例外はあるものの、絶対音楽の代表格とされ、それだけにブラームスは作曲に当たって慎重にならざるをえず、第1番を完成させるのに、なんと20年もかかったのだよ。

ま:20年!?たった40分の曲に20年もかけたの?

博:いやいや、たった40分と言ったけれども、そのわずかな時間に、大先輩である楽聖ベートーヴェンの9曲の交響曲に続くものを凝縮して書かなくてはいけない、というプレッシャーは相当なものだったに違いない。それを跳ね返すのに20年かかったわけだ。

ま:なるほど。でもそれが、今日取り上げる第2番とどう関係があるの?

博:まあ、待ちなさい。ブラームス/交響曲第2番について語るには、前作第1番についても触れる必要がある。そんな経緯で満を持して完成させた第1番の初演は大成功に終わり、当時の大指揮者ビューローはこれをベートーヴェンの第10交響曲と言って賞賛した、つまりブラームスをベートーヴェンの後継者と認めたわけだ。

ま:それで?

博:第1番の成功によって20年間の重圧から開放されたのか、または20年の間に浮かんだものの第1番に採用されなかったアイディアが溢れていたのか、ブラームスは早速第2番に取りかかるのだよ。第1楽章、低弦に続いて冒頭から管楽器によって第1主題が奏されるのだけれども、その低弦の3つの音(レ―ド#−レ)による半音の往復に注意してみよう。この音形がこの交響曲全曲を統一する役目を持っていて、主要な旋律などに登場するのだ。あとは「沈みゆく太陽が崇高でしかも真剣な光を投げる楽しい風景」(いかにも和訳欧文)と評された、暖かく、どこかはかない音楽に身を委ねるとしよう。第2楽章はブラームスが書いたもっとも美しい緩徐楽章で、それを飾るにふさわしいチェロの旋律で開始される。物寂しい開始から抜け出そうと音楽は次第に熱を帯びるものの、頂点を築いた後から、最後はやはり静かに締められるというもの。第3楽章は初演当時から最も親しまれていた楽章なのだよ。オーボエの素朴な旋律とせわしないリズムが交互に現れるという、この原理を応用、拡大したのがマーラーの交響曲第3番の第2楽章…と急に言っても分からないかな。

ま:ちょっと飛躍しすぎだね。

博:で、終楽章はブラームスには珍しいくらいの喜びに溢れた音楽だ。活気のある第1主題と広々とした第2主題によって構成されるが、なんといってもエネルギーが一気に爆発するような結尾が圧巻だよ。ちなみにこの曲の作曲が行われた場所は南オーストリアの避暑地ペルチャッハ。ブラームスはここをとても気に入ったらしく、その後もしばしば訪れているんだ。この曲には多分にペルチャッハののどかな雰囲気が盛り込まれており、闘争的な第1番に対して、終始柔和な曲想を失わない。この曲を聞いたブラームスの友人は「ペルチャッハはどんなにか美しいところなのだろう」と語ったエピソードが残されるなど、そのため、ブラームスの「田園交響曲」と呼ばれることもある。 ま:ベートーヴェンが難聴を克服して書いた第5番「運命」の次作が第6番の「田園」に共通するものがあるんだね。

博:まあ確かにそうかもしれないけれども、いちいちベートーヴェンと比較されてしまうブラームスは少々気の毒だ。それにベートーヴェンと決定的に違うのは、ベートーヴェンは自然の事象を具体的に描写したのに対して、ブラームスは絶対音楽信奉の立場から標題性を盛り込まなかったことだ。この曲には小川のせせらぎも鳥のさえずりも雷鳴も登場しないけれども、それにもかかわらず何かしらの田園風景を思い浮かべるのだとすれば、それは全く聴き手の自由であり、音楽鑑賞(演奏)ならではの喜び、と言えるのではないかな。

ま:なるほど博士、今日はためになったよ。どうもありがとう。

博:おお、最後はやけに素直だな。めでたしめでたし。


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